狩野英孝の原点は、地元・宮城県立築館高校で過ごした青春と、家族と結んだ深い絆にあります。
自由な校風の中、友人とビジュアル系バンドを組み、行事ではユーモアたっぷりのパフォーマンスで仲間を盛り上げた日々。
築館高校で培った、人を楽しませる力や自分を表現する才能は、後に芸人として開花する原動力となりました。
また、温かくも厳しい家族との関わりは、狩野を支え続け、父の遺志を受け継いで神主としての道を歩む決意にもつながっています。
狩野英孝が高校で過ごした青春と家族への思いから、彼の現在の活動のルーツが見えてきます。
Table of Contents
狩野英孝の高校時代~築館高校での青春とバンド活動の衝撃エピソード
引用:Ameba
宮城県立築館高校(つきだてこうとうがっこう)で青春を過ごした狩野英孝は、破天荒でユーモアたっぷりのキャラクターと、周囲を楽しませる明るさで学校生活を彩っていました。自由な校風で知られる築館高校は、狩野の持ち前の個性を伸ばす場となり、彼はのびのびとした毎日を送っていたそうです。
彼の奔放な性格は、日々の学校生活や行事の場で発揮され、いつもクラスのムードメーカーとして同級生を笑顔にしていたと言われています。
そんな狩野が友人たちと組んだビジュアル系バンドは、男子校の仲間たちのみならず、周囲の学校でも知られる存在となり、狩野は高校時代から少しずつ注目を集めていきました。
こうしたバンド活動や学校行事でのパフォーマンスは、彼のユーモアや明るさを育む基盤となり、現在の芸人・タレントとしての活躍にも大きな影響を与えています。築館高校でのこの青春の日々は、今の狩野の個性を形作る重要な一幕となっています。
高校はどこ?地元で愛された築館高校時代
引用:宮城県築館高等学校
狩野英孝の出身校、宮城県立築館高校は栗原市にあり、1901年に創立された伝統校です。
彼は地元で育ち、この築館高校で個性を存分に発揮した高校生活を送りました。
当時からその明るいキャラクターとユーモアで、周囲を魅了する存在でした。高校時代の彼は、地元の仲間とともに青春を謳歌し、地元での人気者として成長していきました。
自宅の櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)からは片道7.6キロほどの距離で自転車通学。
昔は雪が積もるとテンションが落ちた、と振り返る狩野。宮城県の築館高校に通っていた当時、雪の中を自転車で通学せざるを得なかったからです。
寒さをしのぐために、手袋や靴下を二重にし、マフラーを巻き、学ランの下にはトレーナーを2枚着込み、さらにコートにホッカイロと、防寒対策を徹底。
それでも自転車をこいでいるうちに体が温まり、学校に着く頃には汗だくになっていたという、この東北ならではの苦労も、今では懐かしい青春の思い出です。
高校の偏差値と自由な校風
築館高校の偏差値は48程度で、平均的な学力の学校として知られていますが、同時に自由な校風が特徴です。
この環境が、狩野の持ち前の個性とユーモアを伸ばす場となり、彼はのびのびとした毎日を送っていたといいます。
築館高校の卒業生には俳優の菅原文太や脚本家の宮藤官九郎などもおり、地域では名門校としても認識されています。
狩野にとって、この高校での日々は、彼のユニークなキャラクターと自己表現力を磨く大切な場であったといえるでしょう。
ビジュアル系バンド「desinfection」~宮城県立築館高校での青春
引用:Ameba
築館高校に通っていた狩野英孝は、友人たちと「desinfection(ディスインフェクション)」という4人組のビジュアル系バンドを結成し、ボーカルを担当しました。
バンド名は、彼が敬愛するL’Arc~en~Cielの影響を受け、フランス語辞典から「消毒」という言葉を選び、「荒れた世の中を音楽で消毒してやる!」という意気込みが込められたものです。
引用:Ameba
バンドは築館高校内でも話題を集め、ライブをすれば築館高校の生徒や地元のファンが集まり、彼は「男子校だったけど、地域の女子学生からも声をかけられて嬉しかった」と笑いながら語っています。
もっとも、この見た目だったので先輩達からは調子に乗ってると呼び出しを食らっていたそうです。
さらに、狩野は高校時代に弓道部にも所属し、その実力は宮城県代表として国体に出場するほどの腕前でした。
引用:Ameba
弓道を始めた理由について狩野は「袴姿がカッコよくて憧れていたし、モテたかった」と明かしています。
また、「弓道部でモテていた他の生徒に負けたくなかった」という思いもあり、弓道の試合会場では観客として来ていた他校の生徒に、並行して行っていたバンドのビラを配るなど、弓道と音楽の両立を積極的に楽しんでいたといいます。
築館高校弓道部の忘年会。
参加したかったな‥涙。神社の準備しないと‥— 狩野英孝 (@kano9x) December 29, 2019
築館高校の文化祭で「hide」カバー~意外な音楽センスを発揮
築館高校の文化祭で、狩野はhideの「TELL ME」をピアノで演奏しました。普段はユーモラスな性格の彼が真剣に演奏する姿は、同級生たちを驚かせ、彼の多才さを見せつけました。
ドッキリ企画でしたがCDデビューもしていますし、音楽の経験が芸人になって生きています。また、文化祭では友人と即興コントを披露し、場を盛り上げたこともあります。
狩野は「文化祭でのコントが受けて、友達からまたやってほしいと言われた」と語っており、すでに人を楽しませることの楽しさを感じていたようです。
体育祭でのおちゃらけキャラ~クラスのムードメーカー
築館高校の体育祭では、狩野英孝はクラスのムードメーカーとして独特の存在感を発揮していました。
全校生徒が集まる大きな行事ということもあり、狩野はチームの応援に徹底的に工夫を凝らし、ユニークな応援ダンスや即興の掛け声を次々と披露しました。周囲の友人たちは、彼が即興で繰り出すユーモラスな動きや絶妙なタイミングでの一言に、何度も笑い転げたといいます。
体育祭では応援合戦がクラス間で熱を帯び、狩野はクラス全体を巻き込みながら独特のパフォーマンスで場を盛り上げました。
特に彼の「勝ちたい気持ちと笑いを融合させた」応援スタイルは、他のクラスからも「築館高校の応援団にあんな面白い人がいる」と評判になり、彼がいるだけで応援席が明るい雰囲気に包まれたといいます。
狩野の発案でクラス全員が一斉に手を振りながらユニークな踊りをする「波状ダンス」や、即興で作った応援歌を合唱するなど、彼が主導する応援パフォーマンスには参加者が自然と巻き込まれ、一体感を生み出しました。
友人たちも「応援がこんなに楽しいなんて」と喜び、狩野にとっても人を楽しませることへの喜びとやりがいを感じる大切な経験になったようです。
この頃から、芸人としての素質が自然と表れ始めていた狩野は、どんな行事でも場を盛り上げる役割を進んで担い、周囲の笑顔を引き出す力を身につけていきました。こうした日々が彼のユーモアと独自の表現力を磨く土台となり、後の芸人としての基盤を築いたといえるでしょう。
通学中も地元で人気者~「築館高校の狩野だ!」と声をかけられる日々
築館高校の生徒でありながら、通学途中に他校の女子学生から「築館高校の狩野だ!」と声をかけられることが多かった狩野。
男子校でありながら、その明るいキャラクターと音楽活動で地元でも広く知られる存在となり、通学時の彼は、まるで地元の有名人のようでした。
こうした周囲からの注目と声援は、狩野にとって自信を深めるきっかけとなり、彼がさらに自分の個性を伸ばす原動力にもなったようです。
バンド活動中の思わぬハプニング~実家に押し寄せるファンと父親のブチギレ事件
「desinfection」の人気が高まるにつれ、狩野は当時のライブポスターに実家の電話番号を記載してしまうという、大胆な行動に出ました。
携帯電話が普及していなかった当時、実家の電話をチケット予約用に使ったのです。すると、ライブ開催が近づくにつれてファンからの問い合わせが殺到し、実家の電話がひっきりなしに鳴る事態に。
これには、普段温厚な狩野の父親も激怒。「もう電話が鳴り止まらない!」と、狩野は父親にこっぴどく叱られたそうです。
狩野は、「父親にブチ切れられたけど、それが僕たちにできる精一杯の宣伝方法だった」と笑いながら当時のエピソードを振り返り、家庭内での大きな騒動を笑い話にしています。
この経験は、狩野にとっても印象深い青春のひとコマとなっているようです。
狩野英孝と家族の絆~築館高校時代から現在までの支え
狩野英孝にとって、家族は彼の活動の根底を支えるかけがえのない存在です。
築館高校で過ごした青春時代から、家族の支えが狩野の成長を後押ししてきました。
父・勉さんは地元の櫻田山神社の宮司であり、地域に根ざした生活を大切にする姿勢を持っていました。
父から受けた「家族や地域を守ることの大切さ」という教えは狩野にとって大きな指針となり、その教えを胸に刻み、父の死後には家業を継ぐ決意を固めました。
勉さんは2012年に心筋梗塞で急逝しましたが、狩野は2014年に神主の資格を取得し、父の遺志を尊重して神職を継ぎました。
今年も無事に春祭り終えました。 pic.twitter.com/aD9ceHcVhK
— 狩野英孝 (@kano9x) April 10, 2016
高校時代から芸人を志していた狩野にとって、神主を継ぐことは当初は想定外の道でした。
しかし、地元への愛と父への尊敬から、地元の信仰を守り続ける責任感が生まれ、現在では年末年始や祭祀の時期には神社に戻り、地元の人々と交流しながら神主として奉職しています。
芸人としての活動と神主としての役割を両立する日々の中で、父からの教えが彼を支え続けています。
また、狩野の母・千代子さんと弟・孝彦さんも、狩野の活動を支える大切な存在です。
引用:x
母・千代子さんは狩野のユーモアを理解し、家族の根底を支える温かな存在として大きな影響を与えました。
弟の孝彦さんは放送作家として兄をサポートしつつ、兄と同じく神職の資格を取得。
兄弟で協力して実家の神社を支え、父の意志を受け継ぐ決意を固めています。
兄弟二人で守り続ける神社は、家族と共に地域に根ざした生活を続ける象徴とも言えるでしょう。
狩野はまた、姪であるホタルちゃんにも深い愛情を注いでいます。
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ホタルちゃんは「9pトリソミー症候群」という病気を抱えており、家族一丸で彼女の成長を見守りながらサポートを続けています。
狩野もホタルちゃんがゆっくりと成長していく姿に喜びを感じ、家族や子供に対する責任感をさらに強めるきっかけとなっています。
こうした家族への思いは、彼がどの場面でも大切にしている根源的な力です。
狩野は、家族との絆があるからこそ自身の活動が支えられていると感じており、今後もその愛情と支えを糧に、多方面で活躍し続けることを目指しています。
築館高校時代から続く家族との深い絆が、狩野英孝の今日を形作り、さらに未来へとつながっているのです。
ご祈祷後、母親と親戚達と打ち上げ!俺、酔っ払い‥楽しかった*\(^o^) pic.twitter.com/Qtry9PJps3
— 狩野英孝 (@kano9x) October 16, 2015
父の死因と父からの教え
狩野英孝にとって、父・勉さんの存在は非常に大きく、彼の人生に多大な影響を与えました。
父親は櫻田山神社の第38代宮司であり、旧粟駒町の議員も務め、地元の信仰と地域社会を支え続けてきました。
勉さんは、2008年の岩手宮城内陸地震や2011年の東日本大震災による神社の被災に際しても、復興のために尽力し、地域に大きな貢献を果たしました。
残念ながら、勉さんは2012年に心筋梗塞で60歳の若さで急逝しました。
当時30歳だった狩野は深い悲しみに包まれましたが、「父の教えが今の自分を支えている」と述べており、その言葉には父への尊敬と感謝の思いが込められています。
父親が生前に望んでいた通り、狩野は震災後に神社を継ぐことを決意し、地元の人々との絆をさらに深めています。
狩野は、亡き父に「帰ってこれる家をずっと守ってくれて、ありがとう」と感謝を綴りました。現在の神職としての活動には、父から学んだ地域愛や人々を守り続ける意志が息づいています。
母と兄弟との深い絆
狩野英孝は、母親と弟の孝彦さんとの間に深い絆を築き、多くの支えと影響を受けてきました。
お母さんのイケイケなポーズが気になります(-_-;) pic.twitter.com/dSS307K5
— 狩野英孝 (@kano9x) January 5, 2013
母・千代子さんは若々しく魅力的で、メディアに登場するたびに「優しそうで綺麗」と話題になります。
引用:Ameba
彼女は幼い頃から英孝を温かく見守り、地元の伝統や家族の大切さを教えてきました。
幼少期には英孝がゲームに夢中になりすぎてゲーム機を隠された際、逆に彼がゲーム機を捨てられたと勘違いし「母の化粧品を捨てる」という仕返しをしたエピソードもあり、今では笑い話として語られています。
千代子さんは息子の活動を応援しつつも、地元出身のサンドウィッチマンのファンであると公言しており、ユーモアあふれる狩野家の一面が垣間見えます。
サンド伊達さんから急に写真送られてきた💦
え?宮城の実家行ってる💦
ちゃっかり、お母さんと写真撮ってるしw pic.twitter.com/aywSrXmxJ5— 狩野英孝 (@kano9x) November 6, 2022
弟の孝彦さんも、兄から多大な影響を受けてきました。
引用:マネーポストWEB
中学生の頃からお笑い芸人を目指して夢を追い続ける兄を「兄はスターになる」と信じて応援し続け、初めて兄のライブを母と訪れた際、新百合ヶ丘の駅近くで行われた路上ライブには約100人の観客が集まっていました。
引用:Ameba
スターのように堂々と歌う兄の姿に、孝彦さんは「コイツ、本当に福山雅治みたいになるぞ」と確信を持ったそうです。
さらに、今ではメジャーアーティストとなった「いきものがかり」も当時は同じ場所で路上ライブを行っており、英孝のほうが多くの人を集めていたこともいきものがかりのリーダーが証言しており当時からスター性があったことを裏づけています。
カレー屋のオーナーさんの証言を得るまでもなく、事実です。狩野さんのそばでライブしていた僕が証言します。 https://t.co/q1Wxk3ozVG
— 水野良樹( いきものがかり / HIROBA )official (@mizunoyoshiki) November 3, 2023
新百合ケ丘では路上ライブをやっても僕ら全然お客さんを集められなかったんですよね。もう10年くらい前の話しですが。その頃の狩野英孝さんには、まったく、かなわなかったようです…。
— 水野良樹( いきものがかり / HIROBA )official (@mizunoyoshiki) December 30, 2014
孝彦さんは幼少期から兄の背中を追い、同じ築館高校に進学して弓道やギターを兄の影響で始めました。
もともとは地元で公務員になり、実家の神社を継ぐつもりでいましたが、「ぼくだって兄のように好きなことをやっていいはず」と考え、大学卒業後には兄と同じく芸能界を目指して俳優を志し上京します。
しかし、次第に自分には演技が合わないと感じ、放送作家の道へ進むことを決意しました。
現在は「狩野B孝」の名で『有吉の壁』や『しゃべくり007』といった人気番組に携わり、兄の活躍を支える立場としても大きな役割を果たしています。
引用:マネーポストWEB
兄弟の間にはユニークな思い出も多く、幼少期には兄が考案した「カッパ」という遊びに熱中し、向かい合って先に顔をなめられた方が負けというルールで遊んでいたと孝彦さんは語っています。
また、2016年から2017年にかけて英孝さんが女性関係のトラブルを起こした際には、孝彦さんが「いいかげんにしてくれ」と毅然とした態度で叱る場面もありました。
そのとき英孝さんは素直に「すみません」と謝罪し、孝彦さんは「そんなことも言ってほしくなかったのに」と思わず泣いてしまったそうです。
兄の成功を誰よりも信じて応援する一方で、愛情と厳しさのバランスを保ちながら、兄を支え続けています。
孝彦さんは弟として兄を見たとき、「自分も頑張らなきゃ」と思わせてくれる存在だと語っています。
台本に行き詰まると、兄のYouTubeや出演番組を見てカンフル剤のように力を得て、仕事がはかどると感じるのだそうです。
「おそらく僕は、放送作家の中でいちばん狩野英孝の出演作を見ていると思うんです」と語るほど、孝彦さんは兄の活動に対して深いリスペクトを持っています。
同じ宮城県出身であるサンドウィッチマンが活躍する中でも、「一放送作家として見ても、狩野英孝は負けてない。福山雅治にはならなかったけど、いまの兄ちゃんが好きですね」と語り、兄のことを人一倍昔から大切に思っている様子が伝わります。
兄者がさくらももこさんの本、貸してくれたんだけど最高だった。
ちびまる子ちゃん1巻から読み直したい pic.twitter.com/aONqp99f5R— 狩野孝彦 (@chankano322) February 14, 2019
狩野英孝とその家族との関係は、支え合いと励ましに満ち、今もお互いを成長させるかけがえのない絆として続いています。
神主としての現在~父親の意志を継ぐ
引用:マネーポストWEB
お笑い芸人として知られる狩野英孝ですが、現在は地元・宮城県栗原市の櫻田山神社の39代目神主も務めています。
櫻田山神社は約1,500年の歴史を誇る由緒ある神社で、父・勉さんが38代目の宮司として神社と地域を支え続けた場所です。
父・勉さんは2008年の岩手宮城内陸地震や2011年の東日本大震災で神社が被害を受けた際にも復興に尽力し、地域に深く根ざした人物でした。しかし、2012年に60歳という若さで急逝し、地元の人々に惜しまれながらその生涯を閉じました。
狩野はもともと小学生の頃から芸能界に憧れ、東京の劇団の通信講座を受講するなどして夢を育んできました。
父も幼少期は「経験になる」として応援していたものの、高校を卒業する際に本気で上京を決意すると、両親は強く反対します。
実家の神社を継いで欲しいという願いがあったため、狩野にとって芸能活動はまさに父親の意思に背くものでした。神主になるという宿命に対する強い反発から、狩野は1週間近く家出をしたこともありました。
家出の際には弟・孝彦さんが駅まで送ってくれたそうで、この時から兄を応援していた弟の姿が垣間見えます。
しかし、狩野が芸人として活動を始めると、次第に父から神主の話はされなくなっていきました。
反対されないと逆に「やらなくてもいいのか?」という思いが沸いてきた狩野は、地元に帰るたびに年老いていく家族や地域の様子を見る中で、自分が神主を継がないと神社はどうなるのか、という責任感が芽生え始めたといいます。
引用:日刊スポーツ
東日本大震災で故郷が被害を受けたこともあり、彼は「地元を守るためにできることをしたい」という思いに変わっていきました。
父親が亡くなった後、狩野は家族の意志を継ぐ決意を固め、2014年に神職の資格を取得しました。
神職の資格は通常4年ほどかけて取得するものですが、狩野は2か月で集中して勉強し、短期間で資格を取得するほどの覚悟を見せました。そして、神社の神主として39代目を継ぎ、お笑い芸人と神主という二足の草鞋を履く生活を続けています。
狩野は年末年始や祭祀の時期に神社へ戻り、家族と共に奉職しています。
今日は七五三のお祓いしてきた。子供の頃、七五三の時に父親にお祓いしてもらった場所で、今は自分がお祓いしてるなんて不思議な感じ(^-^) pic.twitter.com/3R0zeMBXLg
— 狩野英孝 (@kano9x) October 16, 2015
特に初詣など多くの参拝客が訪れる時期には、彼が直接対応する姿も見られることがあり、ファンと直接交流する機会もあるようです。
さらに、参拝客に渡す御朱印も、狩野自らが一枚一枚丁寧に手書きしていることで話題になり、訪れるファンには貴重な思い出となっています。
「櫻田山神社」御朱印 pic.twitter.com/H1Pdehb4uf
— 狩野英孝 (@kano9x) December 30, 2019
このお正月、神社で御朱印を何百冊も書かせて頂きました。本当ありがとうございます。
筆って、難しいし、間違えられないってプレッシャーに押し潰されそうになる。。
来年はもっと上手く書けるように特訓しときます。。
— 狩野英孝 (@kano9x) January 4, 2018
「ラーメン、つけ麺、僕イケメン」で知られる狩野ですが、神主としての奉職時には芸人らしい言動を控え、神聖な雰囲気を保つよう努めているといいます。
また、バラエティ番組では神社に関する話題についてあまり触れないようにするなど、芸人としての立場と神主としての立場をしっかりと分け、信仰の場に対する敬意を大切にしています。
さらに、櫻田山神社で行われる年4回の祭祀、春祭(4月)、例祭(9月)、秋祭(11月)には神主として出席し、地元の方々と共に地域の伝統行事を守り続けています。
家族で神社を運営しているため、毎年の正月前には家族で連絡を取り合い、正月の奉職準備について話し合うなど、地域の守り手としての責任感を強く持ちながら活動しているといいます。
@nekoshisyo 実家を手伝う狩野英孝 #実家 #狩野英孝 #もう一つの顔 #素晴らしい #素敵 #櫻田山神社 #神社 #お手伝い #おすすめ #偉い ♬ オリジナル楽曲 – ネコ師匠⛩️🐈🎥Cat Master – ネコ師匠⛩️🐈Cat Master
ご祈祷も終わり、神社の前で集合写真。笑いの神様、今年もよろしくお願い致しますm(_ _)m pic.twitter.com/6TCNXbALnq
— 狩野英孝 (@kano9x) January 1, 2015
現在も、芸人として多忙な生活を送る狩野ですが、地元に戻るたびに「帰ってくる場所があることは幸せ」と語り、実家を守り続けてくれた両親への感謝の気持ちを改めて感じているそうです。
引用:マネーポストWEB
弟・孝彦さんも神職の資格を取得しており、兄弟で協力して地域の信仰を守り続けています。
神職を務める一方で、参拝客との温かい交流も大切にし、笑顔で迎える狩野の姿は、父親譲りの地域愛を感じさせるものです。
子供の病気と家族への思い
お笑いタレントとして多忙な日々を送る狩野英孝ですが、家族や子供への愛情も深く、Instagramなどでその様子が時折紹介されています。
特に注目されるのが、姪のホタルちゃんへの思いです。ホタルちゃんは「9pトリソミー症候群」という希少な病気を抱えており、「精神遅延」「言語発達遅延」「骨年齢遅延」といった発達の遅れが見られます。
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家族はホタルちゃんの成長を見守る一方で、同じ病気を抱える子供が少ないため、不安を抱えることもあるようです。
2022年11月には、ホタルちゃんと一緒に撮った写真をInstagramに投稿し、「少しずつ歩けるようになったり、僕のことを認識してくれるようになった」と感慨深く語りました。
彼にとってホタルちゃんの存在は家族愛をさらに深めるもので、「親戚も不安を抱えながら過ごしているけれど、みんなで支えている」と家族全体でサポートの大切さを感じています。
2024年8月には、ホタルちゃんと同じ9番染色体の疾患「9トリソミーモザイク症候群」を抱えるハルくんと初対面。
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この日は二人が仲良く遊ぶ様子を報告し、「ホタルちゃんのためにできることをもっと見つけたい」と新たな目標を語りました。
しかし、この記念の日にホラー映画『チャイルド・プレイ』のチャッキーがプリントされたTシャツを着て行ってしまい、「大切な日なのに、どうしてこんなシャツを選んだのか」と反省し、「子供たちの成長を願う気持ちとTシャツが合わなすぎて申し訳なかった」と苦笑しました。
狩野自身も数多くのアレルギーやアトピー性皮膚炎に悩まされ、小さい頃からアレルギー体質の管理に努めてきました。
エビなどの海産物をはじめとするアレルゲンは数十種類に及び、真夏でも肌を隠すため長袖を着用することが多いそうです。そのため、過去には「この体質が子供に遺伝したらかわいそう」と考え、子供を持つことに消極的だった時期もあったといいます。
食事の場でエビを見ると「母もエビアレルギーだから、遺伝しているのかな」と考え込んでしまうこともあったそうです。
また、前妻との離婚後には「自分が父親としての自信を持てない」といった思いもあり、子育てに自信がなかったと語っています。
狩野は「子供が大好きだけど、育てる自信がない。子供を望む女性の期待に応えられないなら、結婚はもういい」と考えていました。
しかし、時間を経て家族への愛情が深まるにつれて、「不安を乗り越え、家族を支えていく覚悟ができた」と強く感じているようです。
現在、狩野は家族や甥姪たちと過ごす時間を大切にし、彼らの成長を温かく見守っています。
大好きな、姪っ子がここまで笑ってくれたら
世間から叩かれようが、ずっと頑張れる。。大好き。。 pic.twitter.com/iyuMVVFwiE
— 狩野英孝 (@kano9x) December 26, 2017
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Instagramにも家族との和やかな時間を過ごす様子が投稿され、「子供たちの成長を支えながら、自分も成長できた気がする」と語る姿から、家族への深い愛情と責任感が伝わってきます。
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その後2023年10月に第一子となる娘も生まれています。狩野英孝さん自身やその親族はさまざまな病気や疾患を経験してきましたが、現時点で狩野さんのお子さんに遺伝的な問題は報告されていません。
また、狩野さんもお子さんの健康状態に不安があるといった発言はしておらず、家族で日々健やかに生活されているようです。
彼は「家に帰るのが楽しい」と言い、仕事の合間にも一度自宅に戻ることもあるといいます。かつては「芸人仲間と遊ぶ方が楽しいだろう」と思っていましたが、娘が生まれてからは「もっと早くこの幸せを味わいたかった」とすっかり家族中心の生活に変わったそうです。
狩野は娘のためにベビーベッドに見守りカメラを設置し、帰宅後は寝ている娘を起こさないよう気を配りつつ、モニターを見ながら過ごす時間を心から楽しんでいる様子を見せています。
狩野英孝の高校での経験と家族の絆が築いた現在【まとめ】
- 高校時代の青春と個性発揮:宮城県立築館高校で自由な校風に支えられ、ユニークなキャラクターを活かして伸び伸びと生活。ビジュアル系バンド「desinfection」を結成し、ボーカルとして地元の注目を集めた。
- 文化祭と体育祭でのユーモア:築館高校の文化祭ではhideの曲をピアノでカバーするなど意外な音楽センスを披露し、即興コントも行うなど、ムードメーカーとして友人を笑顔に。体育祭でもユーモアたっぷりの応援で周囲を楽しませていた。
- 通学中も地元で人気者:通学中に他校の生徒から「築館高校の狩野だ!」と声をかけられることが多く、地元でも広く知られる存在に。芸人としての原点とも言える人気が築館高校時代に培われた。
- バンド活動中のハプニングと父親との絆:バンドの人気が高まり実家の電話番号をライブポスターに掲載し、電話が鳴り止まなくなるハプニングも発生。父親から叱られるも、このエピソードを狩野は後に笑い話として語り、家庭内での良好な関係が伺える。
- 神主としての現在と地域貢献:お笑い芸人としての活動と並行し、実家の櫻田山神社で神主としても奉職。父親の遺志を継ぎ、地元の伝統を守る立場であることを大切にしている。
- 家族との絆と支え:母や弟とも深い絆を保ち、家族は狩野の活動を陰ながら支える存在に。母親は明るい性格でユーモアを理解し、弟も放送作家として兄を支え、家族一丸で彼の活動を支え続けている。
- 姪との交流から生まれる思い:9pトリソミー症候群を抱える姪・ホタルちゃんとの交流を通して、家族や子供への深い思いやりを育み、彼女の成長を見守りながら愛情を示し続けている。
- 二足の草鞋で歩む未来へ:築館高校で育んだ個性と、家族から受け継いだ責任感のもと、お笑い芸人としても神主としても、狩野はこれからも笑顔と温かさをもって周囲に貢献していく姿が期待される。